昭和46年01月04日 朝の御理解
御神訓 一、「体の丈夫を願え。」
御神訓 一、「体を作れ 何事も体がもとなり。」
命あってのものがですね、健康あっての幸せことに、体の丈夫を願わなければならない。昨日親教会、恒例の御年始に夫婦で参りました。あちらでいろいろ親先生にも教えて頂いて、帰ってきたんですけれども、丁度ちょうど寅年が三人集まりましたもんですからね、それぞれ誰が一番若いかと(笑い)そしたら私が一番若かちゅうことになって、まあ本当に嬉しい事でしたけれども。例えば70になりますと、まあ古希の祝いがありますね。それから敬老会なんかに呼ばれる。
次に敬老会なんかに呼ばれる事を楽しみで行く、まあ年寄りなんかね。社会的にやはり仕事を活発にやっていない。そんなもんおかしくいて、敬老会なんかに行かるもんかというのは(笑い)社会的にもまだ大きな仕事でもやっているという話が出てました。本当に私どもが、まあ命の続く限りある限り御用に使うて頂きたいという一念。もういっちょ早うおかげ頂いてもう早よ(死ぬるってから言うて?)しようというふうな心がないという事が、あぁまあ糖尿病という病気をしておるけれども。
まあ若く見られたのだからからだと思うんです。その中に久留米の総代の播磨さんがおられました。あちらも私初めて聞いたんですけれども、いやぁ合楽の先生と私は友達ですかっちゅう様な事でしたけれど、あちらがもうこんな頭がこんな随分禿ておられますからね、ですからやっぱり老けて見られる。だけではなくてこの頃からもう死ぬるばかりじゃった。なんか中風の様な事に、他所へ行かれてからですね、絶対お酒も頂かれんしタバコも頂かれんと言う様な、もう御神酒も全然頂かれませんでしたけれども。
その上血圧も高い。ほいでまあ私のこといろいろ聞かれました糖尿病と、先生の話を聞かして頂いとった、まあいつまでやろうと思うて先生の話を聞いておったんですけれども。私が糖尿病でもあります心臓病でもありました時でも、あの血圧だけは高くもなからなければ低くもない。そんならまあどれだけ糖尿病だってよかですよとまあ(笑い)。もうその血圧が高くもなければ低くもないと言う様におかげを頂いた。まあ糖尿病はまあ神様の御都合だとまあ私も頂くから皆さんだって同じですね。
皆さんが例えば、病気をされてもね、はい神様の御都合です。ですから「体の丈夫を願う」と言う事は、いよいよ世のお役に立たして下さいという、切なる思い。そういう願いが生き生きとしてくると言う事がね、そのまま体の丈夫を願うことだと思うね。御用に使うてくれと言いよる。お役に立たして下さいと言いよるから、やはり当然、健康の上にも神様はおかげを下さる。
どうぞ健康のおかげを下さい、健康のおかげを下さい。いかに「体の丈夫を願え」と言われるからというて、そのただ健康のおかげを頂かして下さいだけではいけん事が分かります。本当にその、ただ働きたいというだけでもいけん。やはり神様に喜んで頂くような御用の時もお役に立たせて頂きたいという一念がね、私は「体の丈夫」のおかでを頂く事だと思わせて頂きます。「体を作れ 何事も体がもとなり」そうでございます。そこで私は今日は、あの体の事もさることながらですね。
「体の丈夫を願え」というところを心の丈夫を願えというふうに頂いた。同時に「体を作れ 何事も体がもとなり」というところをまず心を作れ、何事も心がもとなりと頂かにゃならんと思うんです。昨日福岡の池辺先生が御夫妻で見えておりました。昨日は皆夫婦でした、皆夫婦で見えておりました。ほいで、いけの先生のいろいろお話を聞きました。今年いけの先生が書かれたものがですね22万に評価されました。そげんほどしの、27万と仰ってましたかね。
このごろ私の(?)でそういう、あの会があったのにもう、(?)うーん書いたものが売れるようになった中に、おかげで先生このごろ(?)たまっとらん。先生このごろおかげでねこの人の分もね、お金になるようになりました。奥さんの事。奥さん抱えた者もです、女なの、もちろん奥さんですから女ですけどもね(笑い)。あの女でも男のような字を書かれます。ほんとえらい活発な大きな字を書かれます。すと池辺先生はいわば細かい字が専門、この人のおかげでこのごろお金になるようになりましたと。
字が上手とか下手とか言うけどもやっぱりですね、それがお金になるとこまでいかにゃならん。ほんなことじゃないですね。信心でも同じ事です。信心させて頂いて信心がやはりお金になるという事は、いわゆる信心させて頂いてです、稽古をさせて頂いたと言うてです、来させて頂いて私はお徳を受けるところまで行かにゃないかんと思うんです。信心の願目とはそこなんですから。どうでしょうかね。お金になる信心ができよるですか。まあ言うならば人が助けられるほどしのですかね。
もうこの人の信心も人が助けられるほどしになりました。私それを聞かして頂きながらですね、丁度家内とこの奥さんがですね、こう2人並んでおられました。いやぁ内の家内は若いなと私思いました。その奥さんと(笑い)。ぜひと終わられたんですけれどもね。(?)と今日はあの、それからまあ薄化粧のひとつもしとりました。でその方よりも歳は友達でも若く見える。そして私の家の家内の信心も金になるようになりましたと、親先生にまあようするに、まあこういっぱい機嫌で言えんですけどもね。
そういう心がです。この人の書いたものはお金になるようになりました。親先生もおかげを頂いてから家の家内の信心で人が少し助かるようになりましたと(笑い)。まあそんなことはないですけれどもね、もう家内の信心をみておる、もう物はいりません、別にどうとしませんけれどもね。もうとにかく奥様の真似はできんと皆んなが言えるでしょう。ね、とくに例えば妊産婦の方達なんかはね、言うなら奥様のお取次ぎを頂くと安産のおかげはもう間違いない、と皆んなが信じておる。
あの人がお結界されてお取次ぎされる訳でもないけれどです。例えばここへ来て奥様にお会いをする事だけでおかげを受けるとこういう。いけの先生の奥様はそうじゃなくて。だんだん成長して、言わばその大体二度目の奥さんですからなんかもうお弟子さんでおありになったんじゃないのかと思います。こいう修行生としての。けれどもこの人の書いたものがお金になるようになったと。とああいうまあ書道の大家ですから、もう先生に就いておられますからね。
べつにどうというて私の家内の場合でも同じ事ね、(おひま?)から一口を頂いたらおかげ頂いたという人じゃあ、だんだんできてくるようになる。いや例えば自分の信心そのものを人に見てもろうて、見せる訳じゃないけれども、もう奥様の真似はできんとこう。そこにです、やはり私は信心の執心、まあ言うならば奥様の真似は少しでもできにゃというようなものです。皆さんが思うて下さると言う事はもう信心がお金になりよると思うのとその信心によって頂き助かりよるのも同じ事。
昨日のいろいろお話の中に善導寺の、親先生は御神前だけをおかげ頂きたい。けれどもまぁあのついでにあのお広前の方も新しく新築をしたいと言った様な話がなっておる。ちょうど去年の、昨日ですね、そういう話がありました。それからそういう話が具体的に進められて行きよる。ほいでまあいろいろお話を頂いておる内にですね、私も出社としてです、親教会のお役に沿う時にゃ何かお役に立ちたいとこう願います。聞きながらそのことを、神様にお願いさして頂きよりましたらです。
心眼にね、横綱をはったね、あのお相撲さんがねすっとこう手を広げておるところを頂いた。ところがね、そのお相撲さんが体は立派なんです、その強かごたる。ところがちっとばかり手が短い。もう私は本当一人でくすくす笑いました(笑い)。私が親先生がお金、どの位掛るよしよ。だからその中のせめて十分の一位はおかげ頂きたいなあとこう思うたね、そしたらね、神様がなるほど力はできてきた、おかげにだんだん。ところが手が短い。(あんまり手が長かつよりよかですよね。
手の短かばい(笑い)ね。と言う事はどう言う事かと言うとね、お前がそれを言いよる思いよるけれどね、まぁだまぁだ手が届かん(笑い)。もう本当に自分でくすくす笑わせて頂く。ほんなことそうだなとこう思うた。まあちっと手に長ごうなるようなおかげを頂かにゃあいけん。言うならもう少しゆとりのあるおかげを頂かにゃいけんと言う事。それもいよいよです、お互いが体の丈夫を願う、いわゆる心の丈夫を願う。「体を作れ 何事も体がもとなり」。
いよいよ今日から全教一斉の寒修行に先駆けて、まあ合楽では今日から寒修行が始まりました。そこでです私はその寒修行、寒修行せめて普通はお参りでけんけれども、寒修行の期間中だけでもとこう弾みができます。それにはね私信心の一番大事な心、それはね自分自身に勝つと言う事。いわゆる己に勝つと言う事。例えばもうもう一回寝たいなあと思う心を殺す事、これは己に勝った訳です。先日ある人がお届された。吉野さんが勤めに出ておられ、おかげでやっぱり3万位のお金を給料貰うらしいですね。
ところがその、自分でお金を頂くようになったらね、もうえらいその買い物が激しくなった。今まで金取らん時にはそうでもなかったですけどね、金を取るようになったらですね、もう見る物欲しうなるごとある。そして1万円ぐらいは出してやらにゃならん。そしたらね、小さい子供がおやつを欲しがるところを頂いた。はあもう次の心の成長になりません。買うななどと言わずに、あんな人がおりますよねもう何か言うたらしゃっちそれを欲しがる顔をしてこたえん、それは心が子供だから。
人が食べよるともうそれを食べようとする。心の成長いわゆる心の浄写がないから、それを抑える力が無いからね。己に勝つ事はいわゆる子供の荷物やはり本当に自分でそれが出来ない。自覚しますけれどもね。子供はもう腹いっぱいじゃったっちや人が食べよると、もうあれを食べたいとこう言う。本当に心の成長をねがわにゃあいけませんね、しかも健全に。だからいわゆる自分を殺すという事。それをおかげ頂いておる内にです、言うなら、まあなーんにも欲しくないと言う様にまでなられます。
タバコならタバコの好きな人がタバコをやめる時にはほんと大変なこと。けれども己に勝つという事。己に勝つ稽古をさせて頂きよると、もうそのタバコは欲しくなくなるでしょう。欲しくない、そして与えられるというのでなからなければ人間の幸せはありません。食べたいから食べるというのならそれは食べ過ぎます、必ず。買いたいから買いよると買い損ないます。必ず買い損ないます。心の健全を願わしてもらわにゃならん。自分を抑えるという力を貰わにゃならん。
それが自分に勝つ事、己に勝つ事ね。寒修行中にね、どうでも一つねその、例えば「体の丈夫を願え。」心の丈夫を願えと頂くので御座いますから、また心を作れ何事も心がもとなりであります。おかげを頂くにしてもまず心がもとなんです。その心がね力を頂いていかにゃならん。しかも、繰り返し繰り返しその心の力、心の健全を頂かしてもらう事を願わなきゃならん。それもなると言う事は、どう言う事かと言うと、己に勝つということなんです。
泥棒癖のある人がです、はあこげな事では幸せにはなれんと思うけれどもね、下駄が、その下駄じゃ無か(笑い)。手がです手がね(笑い)、がたがた振るうそうですね。欲しい物の前に立つと。それをですじっと抑える。そういう力を養わにゃいかん。そしてです。求めずして与えられるおかげ、それを私はお徳と言う。お徳を頂くためには一つ己を苦労し続けさしてもらう修行が必要です。そしてあげん好きな物が欲しくなくなりましたというところまで行かにゃならん。
心の健全を願うと言う事はそう言う事だと思う。三代金光様が「日に日にさら」と仰っておられました。ね、「日に日にさら」でございます。と言う事はです、もう自分をいつも絶えず抑えきっておられると言うか、殺しきっておられると言うか、そこから「さら」のものが生まれてきたんだと想像させて頂きます。お互いがいわゆるさらな信心をさしもらわなければいけません。日に日にお参りをする。そこから「さら」なものを頂いて行くためにはまず自分自身の心が「さら」でなからなければなりません。
言うならその「さら」の心と言うのがどう言う事かと言うとです。腹立ちまぎれにこれを言おうと思うた時に「金光様、金光様」と自分を抑え、自分が欲しいと思うも物を「金光様、金光様」とそれを抑える。その「金光様、金光様」と唱えて、抑えたその後でしょうが。「さら」の心が生まれてくるのは。生き生きとした有難い、はあ言わんで良かったとか、せんで良かったとか、買わんで良かったとかね。私はそういう修行をね、本気でさせて頂くと言う事。
しかもそれが繰り返し繰り返しさせて頂く所からですね。この人の書いた物が金になるようになりましたというおかげになってくると私は思うんです。皆さんがおかげを頂きたい。それならいわゆる「体がもと」と言う事はいわゆる心がもとなのですからね。限りない例えば美しい心、その美しい心がです。今日私が申します「さら」の心ね。その「さら」の心を頂かして頂くために己に勝つと言う事。言うならば己を殺すと言う事。言うならば我情我欲を殺すと言う事ね、そういう稽古を繰り返さして頂くと言う事
。折角あの、信心をさして頂くのですから、日に日に「さら」の御理解を頂くんですから、それを自分の「さら」の心でピシャッとキャッチしなければだめです、その「さら」の心を求め、「さら」の信心を頂かしてもらう、それが私は取りも直さず心の丈夫を願うことになるのであり、何事もその「体がもと」であるようにその心がです、心をつくっていく、心づくりという事を申しますが心をつくるという事はです、ただ御教えを頂いて、いわゆる「本心の玉を磨く事」「改まっていく事」と。
それも言うならです、改まっていく事も限りなく美しくなっていく事もですね。「さら」の心をもってしなければそれはおかげになりません。またさら」の心がなからなければ改まりもできません。その「さら」の心の原動力になるものは己を殺すと言う事なんです。己に勝つという事なんです。己に勝たして頂く、一つ稽古を本気でさして頂く事なんです。様々な成り行き、「成り行きを大事」とこういわれるがね、その自然のそうした成り行きそのものとです。
言わばこう対立した場合ね、それに打ち向こうた場合。難儀な問題がそこに起きてきてもです、それに対立した場合ね、それに打ち勝つ事はです、やはり己に打ち勝つ事だと思うんですね、そういう後に「さら」なものがまた頂ける。だから「さら」なものというのはもう限りがないね。今日ここが分かったからこれでいいと言う訳ではない。それがもう次には「さら」のものを生んで行く「さら」な心というものが生まれて行くための精進がなされなければならん。
それを今日とりわけ私はそこのところに焦点を置いてお話さしてもらうんですけどね。いわゆる己にかつという事。己をもっと虚しゅうするという事ね。そこに「欲しい」も無からなければね、「惜しい」も無いというような心が生まれてくる。それが繰り返し繰り返し成されて行くところにですね。信心させて、私の方の家内なんかがもうどげんお前は、あの休めと言うても休まんね、けどもやっぱのびて倒れるごとある時がやっぱあるけれどもがんばる。
私昨日ちょっと行ったらタンスが引き出しておる。タンスの(ががし?)取れとる。ったら、そのタンスの中に頭つっこんでからちゃんとこう。あらこれ死ぬのじゃなかろうかと(笑い)びっくりしましたが、はっちゅうてがらがら開いた。タンスごと倒れたね、もうとにかく言葉では分かりませんですけれどもです。己に勝とうという事に一生懸命精進しようという事ですよ。どうぞひとつおかげを頂いてね、寒修行の一つの願目になることでしょう、今日のご理解がね。
眠かろうけれどもそこのところをね、己を殺してね、己に打ち勝たせて頂く、言わば勇ましい心とでも申しましょうか、そういう心を持ってですこの寒修行を終わらして頂きたい。そしてそれから、なるほど朝参りがこれほどありがたい事であり、朝起きがこのようにありがたい事であり、それがですおかげで段々馴れて来たと言う様なです、おかげを頂かせて頂くところに私は、まあ期限をきっての修行と言った様なものの、値打ちというかね、ただ寒修行一月なら一月間だけ、ただ参ったからそれでいい。
その中から、自分に言わばプラスして行くもの、体得して行くもの。それがです、今日私が申しますように、己に勝たせて頂く心が少しでも、まあ芽生えてくる。言わば成長して来る。大人になるおかげを頂く事のために、己に勝たせて頂く、それには「心の丈夫を願え、心を作れ何事も心がもとなり」というふうにです、今日の御神訓のところを頂いて頂きたいと思います。
どうぞ。